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2016年12月7日水曜日

かくばかり恋ひつつあらずは その7 仮説の検証 ム型 ベシ型 テシ型 モガ型

前節で宣長の24首のうち「まし」で結ぶマシ型の17首について本稿の仮説を検証し、いずれの歌についても本稿の仮説に基けば合理的な解釈ができることを確認しました。

この説では残るム型、ベシ型、テシ型、モガ型を検証します。それぞれ、後件が「む」、「べし、「てし」、「もが」で結ぶものです。初めにム型を検討します。

7-1 後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背   万02-0115

解釈7-1 取り残されて恋していないならば(追いかければ)追い付きます、道が曲がるところに標を結ってください、わが夫よ

7-1は反事実ではなく、未実現の未来を仮定する条件文であると私は考えます。「標結へ」は縄を張れですが、三通りの解釈があります。曲がり角を間違えないように正しい方向を示すため、間違った方向へ曲がらないように進入禁止のため、追跡を防ぐためです。最初の二つであれば追い付くために協力してくれ、最後の説であれば追い付かれないように対策しなさいの意味です。

7-2 剣大刀諸刃の上に行き触れて死にかもしなむ恋ひつつあらずは   万11-2636

解釈7-2 剣大刀の諸刃の上に行き触れて死んでしまうことになるだろうか、恋していないならば

式(6.2)の対偶関係が示すように、恋しているからこそ自暴自棄にならず生きられるという意味です。

7-3 住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは   万11-2646

解釈7-3 住吉の津守網引の浮きの緒のようにさまよい歩くことになるだろうか、恋していないならば

7-2と同じく、恋しているから心が満ち足りて落ち着いていられるという意味です.。

7-2と7-3はいずれも恋している現状を肯定する恋愛賛歌と考えます。

ム型に共通するのは、現在はそうだが、将来そうでないとしたらどうなるか、という未来の仮定条件です。

次にベシ型を検討します。次の7-4は「ずは」の語法の例としてしばしば引用されるものです。

7-4 験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし   万03-0338

7-4は宣長説の「つまらないことを考えるぐらいなら酒を飲むべきらしい」あるいは橋本説の「つまらないことを考えずに酒を飲むべきらしい」と解釈されてきました。

他の解釈もあります。本稿が前件目的説と呼ぶ小柳智一(2004)は「甲斐のない物思いをしないのなら[せずにいられるなら]、(利口ぶっていないで)一杯の濁酒を飲むのがよいらしい。」とし、本稿が誤用説と呼ぶ栗田岳(2010)は「無益な物思いをしているなら、酒を飲むのがよい」と現代語訳しました。

また、本稿と同じく「ずは」の構文を条件文とする鈴木一彦(1962)は「(人間卜イウモノハ)ツマラナイ物思イヲシティナイトスレバ(他ノ何ヲスルトイウデモナク)一杯ノ濁酒テモ飲ンデイルベキモノラシイ(ツマランモノサ)」と解釈しました。

本稿の仮説に従えば次のようになります。

解釈7-4 甲斐のないことを考えていないならば、(その人は、あるいは、その時は)一杯の濁り酒を飲んでいるはずであることが他の事実から示唆されている

対偶を取ると「酒を飲まないならば甲斐のないことを考える」となります。「べし」の意味は「したほうが良い」という弱い意味ではなく「しなくてはならない」「するはずである」という必然に近い意味であると私は考えます。そうでないならば「べし」は命令の意味を持ち得ません。また「らし」は現代語よりも強く、何らかの証拠となる事実から示唆されるという意味ととるべきでしょう。「らし」の意味に関する詳細な検討は別稿としますが、話者の主観的な判断ではなく何らかの事実が話者にそのような判断を示唆しているのです。

7-4は積極的な飲酒の奨励と考えます。だからこそ大伴旅人の賛酒の13首の冒頭に置かれたのでしょう。

7-5 我妹子に恋つつあらずは刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを   万11-2765

解釈7-5 あの子に恋していないならば思い乱れて死ぬのが当然というものだが

これも「恋が辛いから死にたい」というものではなく「恋しているからこうして正常な精神状態でいられる」という恋愛賛歌であると考えます。

条件文中の「てし」を願望ではなく仮定法とするのが本稿の仮説の仮定2です。

7-6 なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ   万03-0343

解釈7-6 中途半端に人間でいないならば酒壷になってしまっているのか、とすれば酒に染みてしまうだろう

この歌は前節の6-20と同様に解釈できます。

詠者は次のように考えたのでしょう。

自分は半人前の人間である。できれば、他人から尊敬される立派な人間になりたい。しかし、半人前の人間であるのは自分の精一杯の努力の結果である。もしもそうでないとすれば、人間以外のものでしかない。とすれば、酒好きの自分だから酒壷だろう。なるほどそうか。きっと酒に染みてしまうだろう。

けして酒壷になりたいとは詠者は思っていないと考えます。自分は半人前だと謙遜し、一人前の人間にはなれないのだから半人前の人間でないとすれば酒壷だろうと自嘲しているのです。もちろん、前節の6-7から6-11と6-16のように、さらには6-18と6-21でもその可能性を指摘しましたが、後件は実現不能です。人間が酒壷に成るはずがありません。つまり、半人前の自分の肯定です。

本稿の仮説は条件文中の「もが」を願望ではなく仮定法と仮定します。

7-7 我が思ひかくてあらずは玉にもがまことも妹が手に巻かれなむ   万04-0734

解釈 私の思いがこのようでないとすれば玉であるだろう、手に巻かれてしまうだろう(しかし思いが強いので一縷の望みにすがって恋し続けているのです)

次の歌は橋本進吉(1951)が宣長説を否定する根拠としたものです。

7-8 立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ   万20-4441

この歌は本居宣長(1785)が特殊な「ずは」の例としてあげた24首に含まれていません。特殊でない「ずは」、つまり通常の仮定条件文と解釈できると宣長は考えたのでしょう。

解釈7-8 立ち姿の美しいあなたの姿が私の記憶から去らないかぎり一生恋し続けてしまうでしょう

上代には意図的に忘れる意味の四段活用の「忘る」と自然に忘れてしまう下二段活用の「忘る」がありました。当時の人は忘れることを落ち度と考えず、勝手に記憶が去って行くと捉えたのかもしれません。あるいは、式(6.1)が示す二者択一のうちに片方が不可能な事象であれば、必然的に残りが選択されます。とすれば、よもや忘れるなどということはあり得ないので、必然的に恋し続けるという意味になります。

次の歌は濱田敦(1948)が誤用説の根拠としてあげたものです。

7-9 世の中は恋しげしゑやかくしあらば(阿良婆)梅の花にもならましものを   万05-0819

もしも「梅の花にもなりたい」理由が「かくしある」ことであれば、已然形であるべきです。仮名書きされた「かくしあらば」は他に次の例があります。

7-10 我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば(安良婆)言挙げせずとも年は栄えむ   万18-4124

これは未来を「かくしあらば」と仮定するのですから問題ありませn。しかし7-9の前件の未然形が現在の事実である「恋しげし」を言い表しているとは考えにくい。「ゑや」の意味が不明ですが、詠者は「世の中は恋しげし」に疑問を持っているのではないでしょうか。そうであれば、6-12は次のように解釈されます。

解釈7-9 世の中は恋が盛んである。もしもそうだとすれば梅の花にでもなっていることだろうに(しかしそれは不可能だから、恋が盛んというのは嘘だろう)

詠者は次のように考えたのでしょう。

世間では恋が盛んだと言う。しかし自分はずっと「恋ひつつあらず」の状態から、梅の花にでもなっていることだろう。しかしそんなことはあり得ない。それと同じで恋が盛んというのもあり得ないのではないか。

この歌は「恋に疲れて梅の花にでもなりたい」ではなく「世間では恋愛が盛んと言われるが、そんなことはあり得ない」と言っているものと考えます。

(つづく)

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献(刊行順)
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
鈴木朖(1824) 『言語四種論』
Hermann Paul (1920), Die Prinzipien der Sprachgeschichte
大岩正仲(1942) 「奈良朝語法ズハの一解」 『国語と国文学』 19(3)
石垣謙二(1942) 「作用性用言反発の法則」 『国語と国文学』 『助詞の史的研究』(1955 岩波書店)
濱田敦(1948) 「肯定と否定―うちとそと―」 『国語学』 1
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』(1951 岩波書店)
林大(1955) 「萬葉集の助詞」 『萬葉集大成 第6巻 言語編』 (平凡社)
鈴木一彦(1962) 「打ち消して残るところ - 否定表現の結果」 『国語学』
田中美知太郎(1962) 『ギリシア語入門』 岩波書店
Michael L. Geis and Arnold M. Zwicky (1971), On Invited Inferences, Linguistic Inquiry
吉田金彦(1973) 『上代語助動詞の史的研究』 明治書院
佐藤純一(1985) 『基本ロシア語文法』(昇竜堂出版)
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)
Robert M. W. Dixon 1994, Ergativity, Cambridge University Press
伊藤博(1995)『万葉集釈注』全20巻 集英社 1995-2000
小柳智一(2004) 「『ずは』の語法 仮定条件句」 『萬葉』 189
栗田岳(2010) 「上代特殊語法攷 『ずは』について」 『萬葉』 207

注釈書
体系 日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1957)
新編全集 新編日本古典文学全集 『万葉集 1』 小学館(1994)
新体系 新日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1999)

(本ブログのすべての記事および本稿の著作権は記事の著者である江部忠行に属します) 

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