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2020年6月7日日曜日

JBJ-23 品田悦一の「万葉ポピュリズムを斬る」を斬る その二 「ぼーっと生きている場合ではありません」 上代文学会事件

ポピュリズムの「良い我ら」と「悪い彼ら」の対立の構図は容易に人種差別と結びつく。国立アメリカ歴史博物館の「間違いを正す(Righting a Wrong)」の項目の中の人種差別のページに紹介されている写真を見てほしい。「ジャップは留まるな、ここは白人の地域だ」という看板を誇らしげに指し示す主婦は自分が差別主義者だとは少しも思っていない。善良なアメリカの白人対悪の日本人移民という水戸黄門的世界を現実のものだと思い込んでいる。その下の写真の選挙ポスターで日系人を連想させる衣服を着た人物の黒い腕を掴むのは「良い我ら」の代表を自認する上院議員の白い手である。現代のアメリカ人は知らないが、イギリス人の伝統的な分類では日本人は黒人の一員である。

静かな侵略」という虚構を信じる大衆や上の写真の主婦に欠けているのは理性(reason)である。理性とはものごとを論理的に考える能力を言う。ポピュリズムや人種差別を助長するのは論理的思考の欠如である。品田悦一の言う「ぼーっと生きている場合ではありません」のためには個々人が理性つまり論理的な思考力を身に付けなくてはいけない。

ポピュリズムの反対語はエリーティズムだと言われる。エリーティズムの反対語はポピュリズムでもあるが平等主義でもある。上代文学会は原告の「在野の研究者」という言葉に噛みついた。人文科学の世界では大学や公的機関に所属していないと「研究者」を名乗れないらしい。NHK選書だったかインドのカースト制度を解説した本にこんな話が書かれていた。バラモンでない者がバラモンにしか許されない修業をしているのをあるバラモンが見付けた。怒ったそのバラモンはその者を殺し更に内臓を引き出したと言う。何故そこまで怒ったのか。上代文学会が「研究者」という言葉に噛みついたのと同じではないか。被告の答弁書を見た時にその話を思い出した。

被告は「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言った。国語国文学の世界で「研究者」とは大学教員であり、大学教員はバラモンである。大学教員でない者が「研究者」を名乗るのはバラモンでない者がバラモンにしか許されない修業をすることと同じである。そのように理解した。 

しかしそこに根拠はあるのか。大学教員を同じ人間としてrespectするのは当然である。しかし権威へのreferenceまで要求する根拠があるのか。理系の研究者のコミュニティは平等主義である。日常の場の上下関係を研究の場に持ち込んではならない。しかしそこに参加するには条件がある。論理的な議論が行なえるだけの理性(reason)を備えていることである。論理を間違えても良い。しかし他人から論理の間違いを指摘されたときに間違っていることを理解できる能力は必要である。「私は国文科の博士課程を修了して大学で教えているのだから私の主観的判断は正しい」というのは理性的でない。なぜ正しいかを論理的に説明しなくてはならない。

上代文学会事件の原告を私が応援してきたのは被告の主張が非論理的だからである。原告の仮説が荒唐無稽だと言うなら、それ以上に被告代表の品田悦一の言う「大伴旅人の暗号」という仮説は荒唐無稽である。どちらも根拠がない。しかし原告の仮説には反証がない。品田の仮説には反証がある。ならば何故原告の仮説だけが荒唐無稽なのか。それは被告らの主観的意見にすぎない。 

品田の主張は万葉集の東歌や防人の歌の作者に庶民はいないとものである。その根拠は
1 馬を詠んだ歌があるが、馬は高価であり庶民が所有できるものでなかった
2 「葛飾の真間」のような広域地名と狭域地名を重ねる表現は民謡にありえない
というものである。

この根拠が例え正しかったとしても品田の主張は東歌や防人の歌の中に庶民の作でないものがあると言っているだけである。そのことをもって万葉集に庶民の歌がないとは断定できない。このことは前回書いた。品田の主張は早まった一般化(hasty generalization)である。

この論理的誤謬は人文系の論文に頻出する。被告代表の品田は法廷で動詞の連体形に下接する「なり」について説明した後に「原告の学力の限界」と言った。学力の意味は不明だが、仮にそれが研究者の能力を表わすとしよう。しかし原告がたまたまある定説を知らなかったからと言ってそれだけで原告の能力を判断するのは「早まった一般化」である。

馬については既に葦の葉ブログさんの記事がある。しかし品田は反論していない。「研究者」でない一般人を相手にするのはバラモンの恥なのだろうか。品田は「家族が竪穴住居に寝起きしながら、脇には馬小屋があって馬を飼育しているという状況は、ちょっと考えにくいんじゃないでしょうか」と言う。問題が二つある。一つは貧乏だから竪穴式住居に住んでいたのかという疑問である。保温や防風などの積極的理由はないだろうか。オランダでは1960年代まで使われていたと言う。もう一つは「考えにくい」という主観的意見を理由にしていることである。論文に主観的意見を書くのは構わない。しかしそれを理由に結論を導いてはいけない。これは世界的な研究の場の常識である。しかし国語国文学の世界では何故か守られない。文学の感想なら良いが、歴史や言語に関しては主観的意見を何らかの結論を導く理由にできない。

品田は馬の価格の記録を二例あげる。一例は公用の伝馬である。農耕用の駄馬と同じか。それでも数十万円である。他に平安時代の記録もあるが、盗品の時価換算である。わざわざ危険を犯して駄馬を盗むだろうか。たった二例の、それも特殊な事例の、つまりバイアスが掛りやすい史料しかない。これも早まった一般化である。結局の所、馬を庶民が乗り回していたかどうかは分からないというのが客観的な事実である。

「葛飾の真間」などの広狭の地名の重複について品田は日常の会話の例をあげて「文京区の本郷」などと言わないと言う。グライス(Paul Grice)やスペルベル(Dan Sperber)を読んだことがないのだろうか。日常会話は最小の努力で最大の情報を伝えることを目的とする。言わなくても通じるなら言わないのは当然である。しかし歌謡は違う。同じ文言を何度も繰り返す。長大な修飾語を使用する。これらは記紀歌謡に多数の例がある。

万葉集の枕詞は日常会話からの類推では説明できない。「葛飾の真間」の「葛飾の」は枕詞と見做すことも出来る。それが正しいと言うのではない。日常会話で言わないから庶民の作った歌でないという論法が非論理的だと言うのである。「木曽の御岳山」や「土佐の高知のはりまや橋」の例がある。品田はそのような例が近代の民謡に少ないと言う。では現代の短歌に万葉集に比べて枕詞が異常に少ないことをどう説明するのだろう。

広狭の地名の重複の問題も結局はそれが東歌や防人の歌が庶民の歌ではないと言い切るには客観的な証拠とならない。それを無理に「考えにくい」や「はずだ」のような主観的な理由で補強するのは国際的な基準でいう研究のあり方ではない。正しいことは正しい。正しくないことは正しくない。正しいか正しくないかわからないことは正しいか正しくないか分からない。そのように考えるのが理性的(論理的)な態度である。

万葉集は品田のいう「ポピュリズム」(正しくはナショナリズム)に利用されただろうか。「撃ちてしやまむ」のような記紀歌謡が戦意高揚のスローガンに用いられた。万葉集の「醜の御楯」もそうだ。しかしそれは万葉集が天皇から庶民までの歌を載せているかどうかと別問題である。品田の論法に従うならば、庶民の歌を載せているならナショナリズムを鼓舞する文化装置として使っても良いことになる。

問題は万葉集が庶民の歌を載せているかどうかではない。たとえ載せていたとしてもそれをナショナリズムの道具にしてはいけない。「研究者」が一般人を啓蒙するのではなく、一般人が正しい目でものごとを判断できるようにしなければならない。魚を与えるのではなく魚を獲る方法を教えるのである。

万葉集が新政権を正当化するための文化装置として作られたという主張は古田武彦が既にしている。明治政府に利用されたとの記述も『壬申大乱』にある。同様の主張をする先行研究を引用して違いを明らかにすることは理系の論文なら査読の際に必ず指摘される事項である。

品田の言う「ぼーっと生きている場合ではありません」に同感である。ポピュリズムやナショナリズムや人種差別に対抗するには一人一人が理性的であることが肝心である。権威や多数意見を妄信しないのが理性的態度である。皆が言っているが本当に正しいのか。大学教授の説だから正しいのか。大野晋は橋本進吉の言葉を引いてしばしば誰が言ったかで判断してはいけないと言っていた。なぜ大野や橋本がそう言うのか。国語国文学の世界で必要以上に権威の言葉が重みを持ってきたからである。あらゆるものを疑うことから科学(哲学の分身としての自然科学、社会科学、人文科学)は始まる。「ぼーっと生きて」ては学問は進歩しないし社会の不正や差別を正すことができない。

ここに蛇足を書かなくてはならないのが残念だが、人文系の人たちは何かの主張を目にすると必要以上に発言者の感情を読み取ろうとする傾向にあるように思う。理性的(論理的)に考えるよりも、そのような説明が楽だと思うのだろうか。私は別に品田悦一が憎くてこの一文を書いたのではない。木村花さんの事件やジョージ・フロイド(George Floyd)さんの事件に接してその背景に非理性的な考えの蔓延を見たのである。その傾向は上代文学会や萬葉学会の中にもある。それらを一掃しなければ差別のない社会を実現できないし、国語国文学の発展もないと思う。

参考文献
Georgia Green (1995) Pragmatics and Natural Language Understanding, Routledge.
古田武彦(2001.10)『壬申大乱』(東洋書林) 2012年にミネルヴァ書房より再刊。
Deirdre Wilson and Dan Sperber (2012) Meaning and Relevance, Cambridge Univ. Press.
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2020.3) 「万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号
品田悦一(2020.4) 「万葉ポピュリズムを斬る(後編)」 雑誌『短歌研究』 2020年4月号

2020年6月6日土曜日

JBJ-22 品田悦一の「万葉ポピュリズムを斬る」を斬る その一 早まった一般化 上代文学会事件

新型コロナの影響で図書館が休館していた。「短歌研究」の2020年4月号がようやく借り出せた。「万葉ポピュリズムを斬る」の後編がやっと読めた。

品田悦一のいうポピュリズムはナショナリズムである。品田は「本来多角的・多層的であるはずのアイデンティティーのうち、どの国に帰属しているかというレベルばかりがむやみにせり出して、他を圧するようになったのが近代という時代」と書く。それはナショナリズムであってポピュリズムではない。

前回書いたようにポピュリズムは水戸黄門的世界を前提とする。道徳的で善良な「我ら」と不道徳で悪辣な「彼ら」という単純な対立の構図である。それはポピュリズムの必要条件であって十分条件ではない。しかしそれがないならポピュリズムではない。何のためにそのような二元化を行なうのか。民主主義の選挙に勝つためである。

ポピュリズムの根底にはhasty generalizationという論理的誤謬がある。少ない事実を無理やり一般化・単純化して間違った結論を導く誤謬である。「早まった一般化」と訳される。テレビの水戸黄門を見る視聴者は知っている。「代官も商人も全員が悪人ではない、百姓や町人だって同じだ、現実の世界は複雑だ」。それが理性的な考えである。

ナチスは「我々ドイツの労働者や農民は真面目に働いている、狡猾なユダヤ人と彼らと組んだ一部の悪辣な政治家が我々を搾取している」という対立の構図を作った。これは単純で分かりやすい。しかし正しくない。理性的に考えれば、それが早まった一般化の結果だとわかる。

人間は常に理性的か。そうであれば悪政も人種差別も生じない。前回は木村花さんの事件を取り上げた。ドラマの中の世界と現実の世界の区別が付かない非理性的な人たちが彼女をSNSで攻撃した。しかし攻撃した人の全員がいつも非理性的か。そうではない。ある時は理性的であり別のある時に非理性的になるのだ。ネットに向かうと思考が単純化する。水戸黄門を見ている人も同じである。しかしテレビから離れると普段の理性的な状態に戻る。ネットに向かう人は思考が単純化した状態のまま情報を発信する。インターネットの無い時代になかったようなことが起こり始めた原因の一つがそこにあると考える。

ナチスは民主的な選挙で政権を得た。彼らは様々な文化装置を利用して大衆の思考を単純化した。盛大な式典や軍隊の行進は演劇的効果を生み出し思考を単純化する。映画や音楽やヒトラーユーゲントの活動などのすべてが思考の単純化、非理性化に動員された。

それに対抗するにはどうすれば良いか。国民の一人一人が理性的であることである。どんな状況に置かれても常に理性的であり続ける。品田の言う「踊らされてはいけない、ぼーっと生きていちゃいけない」は正にその通りである。しかし多くの人は生まれながらに理性的ではない。様々な論理の錯覚を持って我々は生まれてきた。その錯覚を克服し正しくものごとを考える方法を教えるのが論理学である。論理学の教科書や論理的思考を解く本が多数出版されている。しかし本を読んだだけでは畳の上の水練である。論理的思考は訓練を経て初めて身に付く。

理系の学生は実験を計画し結果を考察することや数学や物理の演習問題を解くうちに論理的に考える訓練を行なう。人文系の学生や教授は他人と議論することで訓練をするはずであるが、日本の文学部の風土(culture)はそれを避ける。権威の意見に反論してはいけないのである。これでは論理的思考が身に付かない。上代文学会は答弁書で「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言った。これでは「専門家である我々は絶対に正しい」と言っているのと同じである。上代文学会はたびたび「根拠」という言葉を使ったが、そのテーゼに根拠はあるのか。自分の主観的な意見を客観的な事実のように主張するのは論理的でない。

品田悦一の主張は万葉集の東歌や防人の歌の作者に庶民はいないとものである。その根拠は
1 馬を詠んだ歌があるが、馬は高価であり庶民が所有できるものでなかった
2 「葛飾の真間」のような広域地名と狭域地名を重ねる表現は民謡にありえない
というものである。

品田の根拠が正しいと仮定しよう。しかしそれでも品田の説には論理的な誤謬(fallacy)がある。品田は馬が読み込まれた歌と広狭の地名が登場する歌だけを庶民のものでないと言っているにすぎない。これは早まった一般化(hasty generalization)である。一部がそうだから全体がそうだという論法である。白い猫を何匹か見て「猫はすべて白い」というのと同じである。ユダヤ人の悪徳商人が何人かいたという事実からユダヤ人がすべて悪徳商人だ結論するのとも同じである。品田の言うように「ぼーっと生きている場合ではありません」である。その早まった一般化が人々を非理性的にし差別を助長することに気付いてほしい。

長くなったので後編は次回とする。

参考文献
Gideon Kunda (2006), Engineering Culture. Temple Univ. Press.  儀式の演劇的効果をこの本で知った。
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2020.3) 「万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号
品田悦一(2020.4) 「万葉ポピュリズムを斬る(後編)」 雑誌『短歌研究』 2020年4月号

2020年5月27日水曜日

JBJ-21 水戸黄門的世界 非理性主義 反多元主義 万葉ポピュリズム The Tabito Code 上代文学会事件

テレビドラマの水戸黄門が人気なのはその単純明快な筋立てである。善良な百姓や町人と悪代官や悪徳商人という対立の構図。代官と商人は徹底して悪人であり、百姓と町人はどこまでも善人である。だから分かりやすい。それが大衆に好まれるのは大衆に知性がないからではない。一日の労働に疲れた頭は不条理劇など受け付けない。却って疲れが増してしまう。しかし大衆はそれが虚構の世界だと知っている。現実の世界がそれほど単純でないことも知っている。虚構の世界の出来事と理解して楽しんでいるのだ。

ポピュリズムは現実を虚構の世界のように単純化する。善良な我々と悪辣な一部の特権階級という分かりやすい対立の構図を大衆に信じ込ませる。善良なドイツ人と悪辣なユダヤ人。道徳的な農民と退廃的な貴族。善なる多数と悪なる少数という対立の構図を多数派に信じ込ませる。ポピュリズムに左右はない。ナチスもナロードニキもともにポピュリズムである。ナロードニキが悪だと言っているのではない。一般的にポピュリズムは善と悪の両側面を持つ。特徴は善良な多数と悪辣な少数という対立の構図を作るところにある。

しかし水戸黄門的な世界観はJan-Werner Müllerによるとポピュリズムの必要条件でしかないと言う。ポピュリズムの十分条件は反多元主義(anti-pluralism)だと言う。ポピュリストは価値観の多様性を認めない。自分たちだけが正義であると主張する。それは確かに悪だ。

万葉ポピュリズムとは何だろう。万葉集は貴族から大衆までというならそれはポピュリズムではない。大衆も貴族も一つに団結しようと言っているに過ぎない。むしろ反ポピュリズムである。逆に万葉集は貴族のものだからと言って否定するならポピュリズムである。

しかし万葉集の作者は本当に貴族だけだろうか。民謡なら土地の人には自明の地名を盛り込まないという仮説がある。例えば「葛飾の真間」「鎌倉の見越」「信濃なる千曲」などの地名の重複である。馬の貴重さとともに万葉集の作者に庶民はいないという仮説の根拠となっている。しかし「土佐の高知のはりまや橋」や「木曽の御岳さん」が反証になりその仮説は否定される。日常会話と民謡は違う。広い場所を表わす地名を入れて誇ることもあるのだ。十分な検証を行わない仮説を自明のごとく扱うのは非理性的である。

悪の安倍政権とそれに反対する善良な我々という構図を理由もなく一般化するのはポピュリズムである。私は安倍政権を支持しているわけではない。安倍政権に反対するなら政策を批判すべきである。個人の人格や知性は政策とは別の問題である。しかしポピュリズムが既存権力を批判するときにしばしば政策とは別の個人の資質を攻撃してきた。ポピュリズムは非理性主義に陥りやすい。

品田悦一の雑誌「短歌研究」への「緊急投稿」はネットで多数の支持を得たようである。支持者は品田の分析を理解した上で支持しているのではない。正しく読めばそこにある論理の矛盾に気付いただろう。相手の人格を攻撃する「「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました」や「高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います」のような記述が反対派に受けたのである。しかし人間を人間としてrespectしていない。

人間を生身の人間として同じ血が通った存在として認めるのがrespectである。安倍晋三の政策を批判するのは大いに結構だ。私もその政策に賛成ではない。しかし現実の人間を虚構世界の生き物のように扱うのは大人のすることではない。

最近日本で起こった痛ましい事件についてThe Washington Postが記事を載せている。プロレスラーがネットの誹謗中傷により自殺に追い込まれた事件である。私は今この記事を書いていて涙が止まらない。彼女は生身の人間であって虚構の世界の生き物ではない。なぜその区別が出来ないのか。

そのような非理性主義の台頭を防ぐのが人文科学の役割であった。それが行なわれないのはなぜか。日本の文学部が考える方法を教えないし訓練しないからである。理系の学部は数学や日々の実験や演習で論理を教えられ訓練される。しかし人文系は論理学を学び討論で訓練されなければ考える方法を身に付けられない。野生のままの思考である。

原告の仮説が荒唐無稽だと言うなら品田の「緊急投稿」の大伴旅人の暗号という仮説は更に荒唐無稽である(註1)。老子や荘子を読んだことがあるなら旅人の歌に老荘思想を見ることはできない。これは前に書いた。長屋王事件で「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」と感じたかどうかは分からない。肯定する証拠も否定する証拠もない。

註1 品田悦一の「緊急投稿」の分析は以下のブログ記事で行なった。
品田悦一の言う「間テキスト性」 The Tabito Code
品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」 The Tabito Code
「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ The Tabito Code 

しかし梅花歌の序文に暗号を織り込んだろうか。当時の日本人が四六駢儷文を書こうとするなら母語話者の書いた漢文から表現を借用するしかない。現代の日本人が和英辞典を使って英文を書くのと同じである。和英辞典の用例は誰かの書いた英文の引用である。しかも序文は様々な漢籍との間に間テクスト性がある。仮に暗号にしようとしても解読のしようがないから暗号になり得ない。それを暗号と考えるほど大伴旅人が知性的でなかったとはとても思えない。

原告は動詞連体形に下接する「なり」があるとした。それは定説に反する。しかしその定説は万葉集や続日本紀宣命などの多いとは言えないテキストの中にその用例がないと言っているだけである。存在したかどうかは旅人が「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」と感じたかどうかと同じくらい不確かである。事実万葉集の用例にそれがあるとする大学教員の論文がある。それは以前に書いた。

連体形に下接する「なり」が上代の文献に見出せないという知識は研究者間で共有されるべきと言うが、「間テキスト性」や「テクスト論」や「ポピュリズム」という用語が何を意味するか、老荘思想がどういうものかという知識と論理的に考える方法も研究者間で共有されるべきである。

結局上代文学会の判断は原告が国文科の教育を受けていないからその仮説も間違いだとする非論理的なargumentum ad hominemという論理的誤謬(fallacy)である(註2)。そのような判断は理性に反する。更に自分たち以外の価値観を認めないという態度は反多元主義である。Müllerによるポピュリズムの十分条件を満たしている。

註2 Wikipediaの日本語版に「人心攻撃」とある。この訳語は誤解を与えそうである。「人に向かう論法」とすべきと思う。上代文学会事件で言えば、原告の投稿を内容ではなく、原告の受けてきた教育を理由に拒否することである。

文学部はポピュリズムや非理性主義に対する防波堤であってほしい。現実と虚構の区別が付かないような考えを排除してほしい。そのためには文学部の個々人が論理的な思考を身に付けること、主観と客観を区別すること、非理性的な思考やポピュリズムを自説の流布に利用しないこと、文学部のギルドを解体し在野の研究者の論文を受け入れること、在野の研究者の知性をrespectすることである。

私は品田悦一の人格を攻撃しているわけではない。品田の主張の中にある論理の誤謬を指摘しているだけである。私は誰かを嫌っているわけではない。非論理的な主張が嫌いなのである。非論理的な主張をした品田が嫌いなのではない。品田が生身の人間であるように私も生身の人間である。

私は時代劇を見るのが好きだ。しかしそれが虚構の世界であることを知っている。私は理系の研究者や技術者として働いてきたが、数えきれない日本の文学作品を読んできた。欧米の文学や漢籍やギリシアやローマの古典も読んできた。けして「猛きもののふの心」ではないつもりである。しかし研究の場では論理的でありたいと考えている。

参考文献
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2019.5) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』 20195月号
品田悦一(2020.3) 「「沸騰」講演録 二カ月連続、掲載! 踊らされてはいけない、ぼーっと生きていちゃいけない。 万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号

2020年5月22日金曜日

JBJ-20 原告が勝訴するために 上代文学会事件

原告は現職の弁護士である。素人が訴訟の戦略を提案するのは差し出がましいかもしれない。しかし違った観点からの意見も多少の参考になるとは思う。

書籍販売サイトの読者レビューに興味深い意見があった。「私は人文系なのですが、在野研究者が発表し難い空気や、在野研究そのものを一段低く見る傾向は残念ながら存在します」である。萬葉学会とメールのやり取りをしていて同じことを感じた。企業研究者として理系の大学教授たちと直接会ったりメールのやり取りをしているときには全く感じなかった「教えてやる」「素人は専門家の言うことに異を唱えるな」という態度である。

以前にも書いたが被告は「原告には専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言う。ここでいう敬意はrespectでなくdeferenceである。この語の意味の違いに注意して欲しい。本居宣長は賀茂真淵をrespectしていたがdefer toしなかった。理系の大学教授の中にも変な人がいないとは言わないが、このようなことを言う人には会ったことがない。相手が誰であろうと必ず論理的な証明に基づいて説明する。自分の主観が正しいなどと信じる研究者はいない。だから被告の準備書面を見て大いに驚いた。理系の人間はこういうculture(註1)の違いに遭遇すると理由が何故なのかを考えてしまう。そして様々な仮説を立ててみる。

註1 この語は日本語の文化よりも風土が近い。社風や校風などの意味である。

理系の研究は大学よりも企業に研究者が多い。ノーベル賞の歴史を見てもBell研究所などの企業から多数の受賞者を出している。一方国文学は殆ど大学でしか研究が行われていない。理系の大学教授は企業の研究者とも学会で交流がある。理系の世界は相互批判が盛んだから自分の考えの間違いに気付く機会が多く自然と謙虚になる。国文科の教授は学生に教えるだけである。出版社や新聞雑誌などと接しても「先生」「先生」と煽ててくれる。しかも他からの批判は無いに等しい。ついついドグマに陥るのではないだろうか。

世の中の人の多くは大学教授はその道の専門家であると思っている。これは裁判官とて同じと思う。私も国語学の論文を読み始めるまではそうだった。しかし論文を読んで感じたのは論説が非論理的な推論に基づくことである。理系の研究者の端くれであるから、他人の論文を読むとき、あるいは自分の論文の原稿を推敲するとき、注目するのは推論の妥当性である。

大学に入学した18歳のときからずっと理系の学問の中で過ごしてきた。科学技術と長年付き合ってきた職業病のようなものかもしれない。論文を読むと論理の流れに注目してしまう。妥当でない推論を目にすると気になる。まるで査読するように論文を読む。

国語学の論文の大半は妥当でない推論から結論を導いている。そして「論証した」と言う。しかし国語学者は自分が論理を間違えているとは気付いていない。弁護士である原告はそれに気付いていると思う。ただしそれは原告が上代語に通じているからでもある。しかし裁判官は違う。論理の専門家であっても上代語については殆ど知識がない。原告に見える論文の非論理性が見えない。

そこで原告に提案するのだが、上代語に通じていなくても非論理性が理解しやすい例を被告たちの論文や著書から選び出し、それを甲号証として提出はどうだろうか。その例として私は品田悦一の「短歌研究」への緊急投稿を取り上げた。品田悦一の言う「間テキスト性」品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージの3編である。蛇足であるが、そこに書いたThe Tabito Codeというのは旅人の暗号という意味である。論理や専門用語の間違いがある。理系の研究者が相手ならその3編の説明で十分と思うが、国語学者に果たして通じるかどうか。裁判官に説明するにも複雑すぎるかもしれない。

もう少し分かりやすい例がある。井村哲夫(2000)が山上憶良の思子等歌の序文の「釋迦如来、金口正説、等思衆生、如羅睺羅。又説、愛無過子。至極大聖、尚有愛子之心。況乎世間蒼生、誰不愛子乎。」(註2)を「仏陀の永遠と法愛とを易しく説くために愛子の念を警えとしたその言葉から、釈尊もまた愛子の念をお持ちだ、と言いくるめる憶良の序文の論法は、一種詭弁に属するものだ」と断じている。井村はその後に理由を詳しく書いているが、憶良の論法は論理的に妥当である。理系の人間の目には井村の論法が詭弁である。

註2 原文と訓読は河童老さんのサイトを参照されたい。

上代文学会代表の品田悦一がこの井村の論文を好意的に紹介している。井村の論文の論理の間違いは非常にわかりやすい。しかし品田がそれに賛成している。今図書館が休館しているので品田の論文名を参照できない。分かり次第掲載する予定でいる。

理系の世界の基準では非論理的な論文を例え100報書いたとしても次の論文が非論理的であるとは言えない。しかし法律の世界ではこれは有効ではないかと思う。国文科の大学教授の書いた論文の非論理性を示すことで、上代文学会が原告の投稿を非常に短時間で不採用と判断したことが著しく信頼性を欠くこと、判断の基準が原告の学歴(法学部卒であって国文科卒でない)ことに立脚している可能性が高いことを示せると思う。

同様のことを上代文学会の理事たちの論文について行えば、世間の人が根拠なく信じるほど国文科の教授の判断の信頼性が高くないことを示せると思う。大学教授は専門家であるから正しいというのは多くの人が信じていることではあるが、少なくとも国文科の教授の論理性については成り立たない。

上代文学会事件について縷々書いてきた。読者の中には自分の論文が採用されないから憤っているだけだと思う人もある(註3)かもしれない。原告についても同様のことを感じる人があるかもしれない。しかしそうではない。大学の教員やその卵である大学院生の論文だから受理(accept)する、国文科の教育を受けていないから棄却(reject)するという理不尽な判断が問題である。

註3 言うまでもないことだが、ここに「ある」を使うのが伝統的な用法である。
a 彼には子供が3人ある。
b 公園に子供が3人いる。
「ある」と「いる」はこのように使い分ける。NHKのアナウンサーがインタビューで「お子さんはおありですか」と質問して、人間に「ある」を使うとはけしからんという投書があったという話を大野晋が著書で紹介していた。国語学や国文科の関係者でこの「ある」と「いる」の使い分けを知らない人はあるまいと思うが、念のために注記しておく。

さらに言えば科学研究費の申請に関係する論文は内容に不備があっても採用するという不正に近いことも行なわれているらしい。博士号の授与についても乱発という指摘がある。少なくとも反証がすぐにあげられる仮説や途中の推論に誤りがある論文に博士号は相応しくない。国文科の閉鎖性やギルド的体質にかんして内部からも批判がある。それについては今は述べない。科学研究費にかんしては政治家の中にも追及する人がある。そういう人たちに働きかけることも有効と考える。

なお、理系の世界では論文の著者と査読者は対等である。それが世界基準である。査読者の意見に著者は反論するし、場合によっては査読者の専門性の低さを指摘して交代を要求することもある。日本の文学部では何故か査読者が一段上の立場のようである。その根拠は何だろう。学術論文は短歌や俳句ではない。主観で優劣を判断されない。拒絶するならその理由を論理的に述べなくてはならない。日本の国語学や国文学の世界で行われている査読者の主観に基づく判断は「学問の自由」を侵犯するものである。そのような主観的判断が認められるなら、憲法で保障された言論の自由が侵される。原告には裁判でこのことを強く指摘していただきたい。

乾善彦は「(文学部の)危機」と言ったが、それは国文科のギルドの危機である。本来の意味の危機に瀕しているのはギルドに蹂躙される学問の自由と発言の自由である。

参考文献
井村哲夫(2000)「山上憶良論」 神野志隆光、坂本信幸編『万葉の歌人と作品〈第5巻〉大伴旅人・山上憶良(2)』に収録


2020年5月21日木曜日

JBJ-19 研究者の条件 上代文学会事件

上代文学会事件の原告(講演発表の募集に応募し拒絶された会員)が自身を「在野の研究者」と紹介したのに対して被告(上代文学会 代表品田悦一)は原告が研究者であるとは「不知」だとし「正業」(本業の意味らしい)が弁護士であると応じた。

原告の言う研究者は「研究をする人」の意味である。これを「研究者(G)」とする。被告の言う研究者は「 何らかの研究機関に所属し職業として研究をする人」の意味のようである。これを「研究者(H)」とする。「ようである」というのは被告が定義を述べていないからである。被告の答弁書や準備書面からの推測である。

研究者(G)と研究者(H)の違いは定義が広義か狭義かの違いに見える。しかし被告にはそれが重要なのであろう。 原告にはぜひ被告の定義を問うていただきたい。勿論論文の評価は著者が誰であるかとは独立である。

理系の世界では学会誌に論文を投稿したり学会で口頭講演をする人は研究者である。ただし学会へ入会するには正会員の推薦を必要とすることが多い。口頭講演は会員が申し込めば原則としてすべて認められる。推薦は当該の学会が認める研究者の条件を満たしているかどうかの判定のためと思う。

その条件は何か。物理学会の会員は全員が大学の物理関連の学科の博士課程を修了しているか。そんなことはない。理学部や工学部の博士や修士が多いが学部卒の人もいる。日本物理学会の会員名簿を今ざっと見た限り所属は大学より企業が多い。

理系文系に限らず世界が認める研究者の条件とは何か。それは誠実であることと論理的であることである。実験や観察のデータは事実として他の研究者が拠り所とする。それを捏造されては困る。また他人の研究成果やアイデアを盗む人がいても困る。もちろん誠実さは「研究の場」に限ってのことである。職場や家庭などの「日常の場」でのことは問わない。それを認めるというのではない。学会が口出しできる範囲の外だからである。

たとえば死刑囚が投稿した論文が受理され学会誌に掲載されることがある。近年では2018年1月に死刑が確定した人の論文が2018年7月と8月の雑誌にそれぞれ掲載されている。日常の場で犯した罪は日常の場が裁く。研究の場が裁くことではない。しかし研究の場でデータを捏造したりアイデアを盗用したりなどをすればその人は研究者生命を奪われる。

国語学では自説を批判されただけで怒る人がいると聞く。理系に限らず国際的な研究の場で相互批判は当然である。そのためには論理的な思考が要求される。論理的な議論が通じない人と議論しても益がない。

多くの人は自分は論理的であると信じている。しかし論理は訓練しないと身に付かない。生まれながらの人間の多くは非論理的である。認知や思考の歪みがあるからである。そのような歪みを心理学や社会心理学の実験が明らかにしてきた。それは訓練で矯正するしかない。論理的な思考は訓練の賜物である。

アリストテレースは三段論法(syllogism)類型化した。そこにBarbaraやDariiという名前が付けてあるのはその体系を暗記するためのラテン語の詩があるからである。日本の歌学が係り結びを覚える和歌を作ったのと同様にヨーロッパは倫理学を覚える詩を作った。アリストテレースのような天才には自明のことだと思うが弟子たちにはそうでなかった。だからこそアリストテレースはそれを類型化した。そしてイスラム圏に伝えられ後にヨーロッパに逆輸入され学ばれた。

リベラルアーツの基礎は三学(trivium)四科(quadrivium)とされるが、その三学の一つが論理学である。生まれながらの人間は論理的でないから学んで訓練されないと論理的な思考が身に付かない。

論理学は「私がそう思うから」「皆が言っているから」 「偉い先生が言っているから」のような主観的な理由を排除する。研究者が有益な議論を行なうためには客観的な事実や演繹的な証明と主観的な意見は区別されなくてはならない。今まで何百報(註1)もの国語学の論文を読んできたが、事実と意見の区別がなされていないものが大半であった。演繹と帰納の区別もおぼつかないと感じた。しかし「万葉学者は頭が悪い」のかに書いたように国語学の論文に非論理的な記述が多いのは単に論理的に考える訓練を受けていないからだと思う。

註1 理系の世界では論文を数えるのに「報」や「編」を用いる。会話では「本」を用いるが正式の文書には書かない。

専門用語を正しく使うことも研究者間の意思疎通のために重要である。専門用語は多義性を排除するために明確に定義されている。定義が明確であるために誤って使うと逆に誤解を導きやすい。

以上が国際的な学問の世界での研究者の条件である。これを「研究者(I)」としよう。勿論被告が述べるように当該分野の知識が共有されていることも重要ではあるが、必須ではない。それよりも誠実さと論理性が重視される。

以上をまとめると研究者(I)の条件は以下である。

1 誠実であること。研究データを捏造しない。他人の成果やアイデアを盗まない。先行研究があるなら必ず引用する。引用せずに他人の成果やアイデアを論文に書くと剽窃を疑われる。日本の人文科学では対立する研究者や研究グループの論文を引用しないと聞くがそれは研究者(I)の世界ではunfairとされる。

2 論理的であること。そのためには訓練が必要である。理系の学問は学ぶ過程で自然に生まれながらの人間が持っている論理の錯覚を矯正される。人文系の学問は正しいと正しくないの境界が曖昧だからなかなか矯正されない。論理的に考えるためには論理学を学び演習問題などで訓練を積まなければならない。

3 専門用語を正しく理解していること。研究者(I)間の意思疎通が正しく行われるために必須である。研究論文は詩ではない。専門用語を比喩的に用いてはならない。比喩が論理でないことは言うまでもない。

必須ではないが成功する研究者の条件は何だろう。それは発想力だと考える。今までにない新しい考えや見方を生み出す力である。国語学の世界ではしばしば他人の論文を非難するときに「思い付き」という言葉が使われる。しかし新しい考えは思い付くしかない。理系の世界では他人の発想力に感嘆したときに「とても私には思い付けない」などの表現が使われる。思い付きは称賛されるのである。

思い付きを良い意味で表現するときに「ひらめき」と言われる。しかしそう簡単にはひらめかない。十分な知識や経験に加えて考え続けることが重要である。研究者(I)は考え続ける。ある観測事実を説明するための理由を考えるとしよう。十や二十の候補はすぐに浮かぶ。思い付くたびに他の事実に適用できるかを検討する。多くはそのような簡単なテストで棄却される。仮説は正しいことを証明できない。しかし間違いであることは反証を一つあげることで証明できる。思い付く、テストする、棄却する、また思い付く。これを何百回も何千回も繰り返す。そのうちに手持ちのデータに矛盾しないものが見付かる。それを実験などでテストする。あるいは他人のデータと照らし合わせる。そこでまた多くが棄却される。

自然科学の世界で、いや、ありとあらゆる学問の世界で、考えるとはそのような空しい過程を諦めずに続けることである。数えきれない思い付きとテストと棄却の繰り返しの過程ですべてのデータを矛盾なく説明できるものが得られる。後から振り返ってあの「思い付き」が転換点だったと思う。それを研究者(I)は「あの時ひらめいた」と表現する。

観測事実によるテストが行われない発想は「単なる思い付き」で終わる。国語学者が言う「思い付き」はテストされていない発想のことかもしれない。しかしどうもそうではないようである。国語学者はしばしば「論証」という言葉を使う。しかしそれは単に正しいかもしれないという可能性を「考えられる」「自然である」「はずだ」「違いない」という言葉で飾り立てただけである。すべて著者の主観に過ぎない。読者が著者の主観に共感したとき「論証された」と主観的な感想を述べているのである。論証でないものを論証と考えるから共感が得られない仮説を「思い付き」と言うのではないだろうか。しかし経験科学において論証は行えない。それが出来るのは数学のような人間が作った公理から出発する学問だけである。

論証できる仮説などあり得ない。それが可能ならそれはもはや経験科学でなくオカルトである。仮説は反証をあげて間違いを証明できるが正しいことは証明できない。これは仮説の性質である。経験科学に公理は存在しない。新しい理論は思い付く以外の方法で作られない。

ニュートンの法則やマクスウェルの方程式は仮説に過ぎない。あらゆる科学法則は観測事実と照らし合わせて矛盾しないから棄却されていないだけである。ニュートンは力学の法則を思い付いたのであって論証したのではない。実験事実に矛盾しなかったので長い間正しいものと仮定されてきた。

国語学は言語学の一分野である。言語学は経験科学である。間違いだという反証が現れない間は棄却されない。しかし反証が現れていないことは正しいことの証明ではない。このことが国語学者になかなか理解されないようである。正しいものと正しくないものの間に正しいか正しくないか決められていないものが存在する。正否を決定することが不可能な仮説は科学の対象ではない。勿論ここで言う不可能とは個人の主観による判断ではない。客観的に証明されなくてはならない。

ニュートンの仮説はアインシュタインの相対性理論に取って代われた。アインシュタインは相対性理論を論証したのではない。ニュートンの時代には出来なかった方法に基づく新しい観測事実がニュートンの仮説の反証となった。アインシュタインの仮説はその観測事実と整合した。ニュートンの仮説が棄却されアインシュタインの仮説が残った。現時点でアインシュタインの仮説の反証は現れていない。しかし正しいとは証明されていない。経験科学は理論の正しさを証明できないのである。

特許庁で働いていた在野の研究者のアインシュタインが尊敬されるのは誰も思い付かなかったことを思い付いたからである。何かを論証したのではない。その思い付きが評価されるのは今までの観測事実に矛盾しないからである。上代文学会代表の品田悦一は被告席で「原告の学力の限界」と述べたが、アインシュタインは学力が評価されているのではない。発想力が称賛されているのである。


2020年4月27日月曜日

JBJ-18 「万葉学者は頭が悪い」のか 上代文学会事件

国語学の論文を読み始めたときは驚いた。これが学術論文かと思った。推論が驚くほど非論理的なのである。時代劇によくある「赤子の手をひねるようなもの」(easy as twisting a baby's arm)とはこのことかと思った(註1)。

註1 この英訳を本田増次郎の翻訳書で知った。

ある人が「(万葉学者たちは)偏差値が低い」「知能指数が低い」と言った。私は即座に反論した。理由は二つある。一つは黙っていると私が言ったことにされるのではないかと恐れたため、もう一つは、そもそも私はそう思っていないからである。

彼らは頭が悪いのではない論理的に考える訓練を受けていないだけだ。そのように私は答えた。

これは考えに考えてたどり着いた結論である。最初は、この著者は私大の文学部卒で高校から数学を全く学んで来なかったのだろう、などと思った。しかしそういう人が何人もいる。国立大学を卒業した人もいる。入試に数学がある。数学を全く学んでいないとは言えない。私の最初の仮説は棄却された。高校時代の同級生の中に文学部に進んだ人たちがある。一人一人を思い出してみた。彼らはそこまで非論理的な主張をしたか。いや、違う。では、なぜ国語学者がここまで非論理的なのだ。

私は大学入学以来ずっと理系の中で暮らしてきた。職場も周りの殆どが理系の卒業生である。だから論理的な説明が通じるのが当然と思っていた。しかし「理系の人」が論理的なのは生まれつきの性質ではない。訓練された結果なのだと気付いた。

数学や物理の問題を解く。論理が正しくないと答えが合わない。実験をする。予想通りにならないのはどこかに論理の欠陥があったからである。コンピュータのプログラムを作る。計画通りに動かないのはプログラムの論理に間違いがあるからである。これが訓練だったのだ。

中学や高校で運動部に入った経験がある人は分かると思うが、飽きるような単調な練習を繰り返しやらされる。その訓練のおかげで考えるより先に体が動くようになる。放課後だけの練習を一年続ければ一般の生徒と技量に大きな開きが出来る。理系の学生はその訓練を朝から晩まで四年間続けるのだ。文学部の学生と大きな開きが出来るのは当然である。卒業してからの日々の仕事もまさに訓練である。

人間には自分や周りが思っている以上の能力がある。私はそう思う。学校を卒業して就職する。職場には工場や研究所の地元の工業高校を卒業して入った人たちがたくさんいる。その中には大卒の技術者が足元にも及ばないような着想力や判断力を持つ人も多い。技術系の職場は一緒に仕事をしていればその人の実力がすぐに分かる。

ところが文学部はそうでないようである。萬葉学会のある人が「(萬葉学会は)京都大学の人たちが作ったので私学卒の私はとても苦労した」と語った。なぜ私学だと苦労するのか。萬葉学会は学歴で差別するのか。ここで草野球のチームを考えてほしい。試合の前の晩に酒を飲みながら「私は名門高校の野球部だった」と言っても、翌日試合をすれば実力が分かってしまう。どこの学校を出たなどというのは全く意味を持たない。それが理系の世界であり、意味を持つのが文学部の世界なのかもしれない。

なぜ意味を持つのか。相互批判が為されないからだと思う。国語学の世界には自説を批判されただけで怒る人がいると言う。なぜか。それも相互批判がないからだと思う。理系の世界のように日々相互批判が行われているなら、草野球の試合のように何度も打席に立ったり守備機会があったりすれば、一度や二度の失敗は挽回できる。しかし相互批判がない世界では、一度の間違いが致命的な印象を与えるのかもしれない。つまり、あの人は(一度だが)間違った、あの人の言うことは信用できない、という、およそ学問の世界とは思えない非論理的で幼稚な判断基準である。

上代文学会は原告は「研究者(H)」でないと言った。その正確な定義は裁判の中で原告から被告に問うてほしい。私の仮説では、「研究者(H)」とは国文科の教員と大学院生である。例外があるとすれば、山田孝雄のような小卒(中学中退)の小学校の教諭である。

被告席で品田悦一は原告の文法の誤り(品田から見た判断ではあるが)を指摘した後で「原告の学力の限界」と言った。原告を怒らせ裁判官を呆れさせたことと思う。大人に向かって「学力」などという言葉を使うか。そう思ったと思う。しかしこれは文学部または国文科の方言ではないか。というのは、同じ言葉を国文科の卒業生の読者の方からのメールで読んだからである。私の説を乾善彦や上野誠がなかなか受け入れようとしないことについて、学力の高い人の言うことを学力の低い人は理解できないとあった。学力というのは学習能力ではなく学問の能力の意味ではないかとその時悟った。

しかし論文の審査に著者の学歴や実績は効力を持たない。もしもそれに基づいて採否を決めるようなことがあれば、他分野なら不正を糾弾される。たとえ著者の学問の能力が低かったとしても、それを理由に発表を受け付けないとか、論文を掲載しないということはあってはならない。原告はそのことを強く主張すべきである。

上代文学会や萬葉学会の問題は彼らの選民意識非論理性である。自分たちは専門家であるから自分たちの主観的判断が絶対に正しいと信じて疑わない。それがどんなに非論理的であるかを知らない。彼らが学校で習ったのと違う考えは「説得力がない」と一蹴される。学術論文の審査は評価ではない。評価は出版後に為されるものである。そのような研究活動の基本となる考えを彼らは受け付けない。これは学問の自由や発言の自由の蹂躙である。

裁判所は大学や学会の判断を云々することが学問の自由に反すると考えるのかもしれない。事実は違う。学門の自由を侵犯するのは大学の国文科や学会である。そのことを原告は強く主張すべきである。自分たちと違う考えを封じることは学問の健全な発展を妨害することである。

ここまで書いてきても、読者の中には、大学の教員が間違うはずがないと思う人もあるかもしれない。そのために、三回にわたり品田悦一の緊急投稿の専門用語の間違いと非論理性について書いたのである。なぜ品田悦一の論文を選んだか。上代文学会の代表だからである。ぜひ品田悦一の言う「間テキスト性」」、「品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」」、「「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ」を読んでいただきたい。私は大学に入学して以来理系の世界で生きてきた。その三回の分析で十分と思っているが、ひょっとして国文科の教員たちには伝わっていないのかもしれない。品田悦一が何を間違えて何が非論理的かについて再度書くべきかもしれない。

研究者同士の自由な相互批判が研究を発展させてきた。研究者が論文を書くのはスポーツの選手が試合の場に立つのと同じである。そこには日常の場とは違うルールがある。全力を尽くして戦っても試合が終われば遺恨はない。しかし文学部の研究者の中には自説を批判されただけで怒る人たちがいると聞く。もしもそうならその人は研究者とは言えない。批判されるのを好まないなら研究をやめるしかない。私は品田悦一の論文を批判したが、論文を書いた品田個人に対して特別な感情があるのではない。研究の場と日常の場は別である。 

理系の研究者同士なら言わなくも良いことを書いた。品田悦一がそういう人物だなどとは思わないが、文学部の研究者の中にはそうでない人もあるかもしれない。このような蛇足を書かなくても良くなったとき日本の人文科学の研究は欧米と対等になるだろうし、そうなることを願っている。

参考文献
小谷野敦(2010)「文学研究という不幸」(ベストセラーズ)
中島義道(2014)「東大助手物語」(新潮社)
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』2019年05月号

2020年4月26日日曜日

JBJ-17 原告は研究者でないのか 被告は研究者なのか 文学部教員たちの選民意識 上代文学会事件

Autre syllogisme: tous les chats sont mortels. Socrate est mortel. Donc Socrate est un chat.
Eugène Ionesco, Rhinocéros.

以前書いたように、研究者と有名人は敬称を省略する。研究者は論文の著者、有名人は名前がWikipediaの項目にある人物とする。

昨年3月に上代文学会(代表 品田悦一)を被告とする損害賠償請求訴訟が東京地裁に提訴された。原告が「在野の研究者」と名乗ったのに対し被告が異議を唱えた。しかし学会に所属して論文を投稿する人は研究者である。研究者でない人には学会に所属する利点がない。原告は上代文学会の会員であり、かつ、論文の投稿や口頭発表の申し込みを行なうのであるから、原告は研究する者つまり研究者である。

しかし被告は原告を研究者でないと言う。たとえば、被告は「常任理事は全員、大学の教員で、学期末、学年末には、数百枚の答案、数十通のレポート、卒業論文・修士論文などを短期間に読んで評価を下している。時間内に800字前後の発表要旨8通を精読して下位2名を選ぶことに困難を感じない。自分が出来ないからといって、研究者にも出来ないと臆断するのは不当である」と言う(2019年8月15日付被告準備書面)。

議論がかみ合わないのは原告と被告のそれぞれの定義する「研究者」の意味が違うからである。しかし被告はそれに気付いていない。もしも気付いているなら後から書面を提出する被告は別の定義であることを言わなくてはならない。また、もしも気付いていて敢えて言わないならそれは詭弁である。被告に悪意があるのではなく、単に被告が論理的な議論に慣れていないための見落としであろう。

以下、研究する者をいう研究者を「研究者(G)」、被告が独自に定義するものを「研究者(H)」とする。Gは原告、Hは被告を表わす目安である。「研究者(H)」は「研究者(G)」とどう違うのか。被告は明示的に述べていない。

被告の答弁書や準備書面から推測するに、大学教員と大学院生は「研究者(H)」のようである。被告は言う(2019年4月22日付被告答弁書)。「ただし上代文学に対する説得力のある新説は、それに関わる知識や研究方法を学んでいなければ提出できない。専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない。研究方法は多様でありうるが、基礎知識は共有しなければならない。その学びの場として、全国の大学や大学院上代文学の講座が開かれている。そこで学んだ者が研究者になった場合、文学研究では、研究に専念できる場を得られる職業がほぼ大学教員しか無いので、発表者は大学に職を持つ者、あるいはそれを自指す大学院生に偏るのである」

更に「研究者(H)」は大学教員と大学院生に限られるようでもある。被告は言う(2019年4月22日付被告答弁書)。「当該歌が単に季節の推移に対する感想、を歌ったものではないことは、研究者の間ではほぼ共通した認識となっている」。「当該歌」とは万葉集28番歌であるが、「単に季節の推移に対する感想」でないことが「ほぼ共通した認識」なのは大学の教員や大学院生の間ぐらいである。

また被告は次のようにも言う(2019年6月10日付被告準備書面)。「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」。「従来の『万葉集』研究を謂われなく否定しつつ、著者の先入観が検証されることなく展開されるのであれば、研究者から黙殺されるのも致し方ないだろう」。「本件の訴訟も、自己の提出した要旨に、文学・語学研究上の基本的な誤りが存在するにもかかわらず、研究者の度重なる諌止を振り切って、自己の法廷での弁論術を侍みに、文学・語学研究の専門家でもない裁判官に学理上の判断を強いようとする、きわめて不当なものである」。

原告は研究者でなく、かつ、万葉集の訓読に関する論文や書籍の著者は研究者であると暗示する。また「度重なる諌止」を行なったのは上代文学会の理事たちであるから彼らも研究者であろう。

以上から、「研究者(H)」とは、国文科の大学教員と大学院生と彼らが特別に認定した人物に限られる、と推測する。あくまでも推測である。原告は上告審でこのことを被告に確認してほしい。これは重要である。

この裁判に私が注目する理由の一つは国文科の教員たちの選民意識にある。国文科で学んでいない「非研究者(H)」は「研究(H)」が出来ない、「研究者(H)」である自分たちだけが正しい、と彼らは考えているように見える。しかし、そこに上代文学会が答弁書や準備書面でたびたび口にしていた根拠が一切ない。彼らの言う「説得力がない」は「研究者(H)」でない外部の者が言うから信じない、「研究者(H)」である国文科の教員たちから自分が習ったことと違うから信じない、という彼らの主観的判断に過ぎない

大学の教員は当該分野に関して専門家であり、一般人の及ばない知識と判断力を有する。そのように一般人の多くは思っている。裁判官の多くもそうだろう。しかし、国文科の教員については違うと私は考える。被告は「研究方法は多様でありうるが、基礎知識は共有しなければならない」と言う(2019年4月22日付被告答弁書)。しかし、それ以上に重要なことがある。研究者に不可欠なものは論理的な思考および主観と客観の区別である。

今まで三回にわたり品田悦一の短歌研究への緊急投稿を分析してきた。「品田悦一の言う「間テキスト性」」、「品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」」、「「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ」である。何のためか。研究者(H)」の書く論文の非論理性を明らかにして彼らに気付いてもらうためである。誤解しないでほしい。彼らの人格の非論理性ではなく、彼らが書く論文の非論理性である。人格と意見(論文)が別であるとする研究の場の常識を思い出してほしい。原告には上代文学会の常任理事たちの書く論文について同様のことを行なってほしい。国語学の研究が学問の本来のあり方、すなわち、論理性と客観性から乖離したものであることを裁判官に示してほしい。いや、裁判官だけでなく、常任理事たちにも自分たちの書く論文が論理性と客観性に乏しいことに気付かせてほしい。

原告にはもう一つ知ってほしいことがある。この裁判は「学問の自由」のためである。それは大学の教員たちだけの専有物でない。「研究者(G)」の一人一人にある。その自由が大学の教員たちによって侵犯されているのである。研究成果を発表する自由を「自分たちの主観と違う」という理由で蹂躙して良いのか。当然の権利を「自分が大学で習ったのと違う」という理由で侵害して良いのか。文学部の危機と乾善彦は言おうとしたようだが、その危機の原因は選民意識に基づくカーストで文学研究を排他的に支配しようとしている教員たちのギルドにある。

冒頭の引用はイヨネスコの「犀」からである。フランス語は初級を学んだだけなので英訳を参考にして訳した。

三段論法をもう一つ:すべての猫は不死でない。ソクラテスは不死でない。ゆえにソクラテスは猫である。

これが間違いであることは誰でもわかる。論理学では「後件肯定」と言われるfallacyである。正しい三段論法は

すべてのギリシア人は不死でない。ソクラテスはギリシア人である。ゆえにソクラテスは不死でない。

となる。この推論は
G → M, G
∴ M
という形をしていて、妥当である。一方、上の猫の推論は
N → M, M
∴ N
であって、この推論は妥当でない。ここで、Gはギリシア人である、Mは不死でない、Nは猫である、いう意味である。

この論理学は形式論理学と呼ばれる。この形式論理学の意味を国語学者の一部は誤解して、「形の上では正しそうだが、現実は正しくない論理」だと思っているようである。証拠はここでは出さない。某大学の名誉教授である。形式論理学はそういうものではない。形式の上で妥当な推論であれば、前提が正しい限り結論が正しいことを保証するのである。しかし国語学者の一部は(多くは?)形式から妥当性を考えない。結論の「ソクラテスは猫である」を見て、引用の推論は間違いだと言うのである。それでは論理学を知らない一般人と変わらない。

実は品田悦一の緊急投稿の論法にも「ソクラテスは猫である」の間違った推論が幾つか用いられている。別に品田悦一に限らない。国文科の教員たちの書く論文の多くに同様の非論理的な推論が用いられている。そのことを原告は裁判で示してほしい。裁判官は上代語の専門家ではないが、「研究者(H)」たちよりは論理に敏感なはずである。

実はイヨネスコの戯曲にはソクラテスという猫が登場する。また引用の前に次のような一節がある。

Voici donc un syllogisme exemplaire. Le chat a quatre pattes. Isidore et Fricot ont chacun quatre pattes. Donc Isidore et Fricot sont chats.

ここに三段論法の例があります。猫は四本足である。ミケとタマは四本足である。ゆえにミケとタマは猫である。

これも後件肯定のfallacyつまり「ソクラテスは猫である」と同じ形式の推論である。国語学者の多くと言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも何割かはこの推論を正しいと信じてしまうようである。

これも間テクスト性の例であるが、「国語学者には、論理的な訓練を大学で受けてきた国語学者以外の者に対する敬意が欠けている」あるいは「自分が論理的でないからといって、国語学者以外の者も論理的でないと臆断するのは不当である」と言いたい。

論理的に考えられないならば研究者とは言えないのが、理系や法律の世界の常識である。主観と客観の区別が出来ないなら、他人の論文の査読は出来ない。もしもそのような査読をするなら、その査読者は論文の著者の当然の権利として他の者に交代させられるのである。

国語学というのは、少なくとも上代文学会と萬葉学会だけを見るならば、学問と言える段階に達していないと思う。

文学部には独自のカーストがあるようである。それについて書くつもりで下記の引用文献を上げた。文学部以外の卒業生には一読を勧める。他の学部の出身者には理解できない世界と私は感じた。

参考文献
小谷野敦(2010)「文学研究という不幸」(ベストセラーズ)
中島義道(2014)「東大助手物語」(新潮社)
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』2019年05月号