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2017年11月26日日曜日

To sue or not to sue その5 高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足

その2 高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に三番目の問題点として「3 モダリティ(modality)の意味が正しく理解されていない。 また、高山氏の言う「モダリティ形式」は「推量の助動詞」を言い替えただけにしか見えない。」と書いた。

高山善行(2005)の「要旨」には
 助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われているが, 実際にはよくわかっていない点が多い。本稿では,このテーマをモダリティ論の視点から捉え直し, 新しい分析方法を提案する。
とある。「はじめに」には
助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われ, 古典文法では, 「仮定婉曲用法」の名で知られている。しかし実際には, この用法での「む」の性質はよくわかっていない点が多い。本稿では, この問題をモダリティ論の視点から捉え直す。そして, 連体用法での「む」の機能を明らかにすることを目標とする。 
とあり、「研究の目的」には
 本稿で取り上げるテーマは助動詞「む」の用法のひとつであり, 助動詞論で扱われるのが通常である。以下では, それをモダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい。
」 (1.2節)
とある。 

以上を総合すると、高山善行(2005)が扱う題目(テーマ)は「助動詞「む」の連体用法が《仮定》《婉曲》を表すとされること」であり、それを従来の助動詞論ではなくモダリティ論から検討することが窺える。

なお、英文アブストラクトには
A number of previous studies have made an analysis of the adnominal usage of the Old Japanese auxiliary mu based on inductive methods; however, the essential problems have been left unsolved. This paper investigate sand describes the adnominal usage of mu based on a deductive method.
とあり、《仮定》《婉曲》と「モダリティ論」の文言はない。代わりに、従来は帰納的方法、本論文は演繹的方法という点が強調されている。なぜ英文アブストラクトから削られたかは分からない。高山氏からのコメントを待ちたい(※)。

※ この連載記事については萬葉学会を通じて高山氏へ伝えることとする。その内容について次回掲載する。

高山善行(2005)とよく似た論文がある。山本淳(2003)である。しかし、高山氏は
これまで,連体用法「む」を正面から取り上げた研究はほとんど見られず,助動詞研究の中で最も扱いにくいテーマの一つと言える。その背景には,伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる。
」(1.3節)
と書き、注6で
連体用法「む」を正面から取り上げた,数少ない研究としては,小林(1992)がある。
と述べるに留める。大学の国文科の紀要類は大学間で送付しあうのが通例であるから、山本淳(2003)を掲載した「山形県立米沢女子短大紀要」を高山氏が勤務していた福井大学の国語学教室が所有していなかったとは考えにくい。タイトルを見れば必ず読むはずである。山本氏の論文も正面から取り上げた数少ない研究である。

さらに高山善行(2002)が引用して高山善行(2005)が引用しない和田明美(1994)は「む」に関する網羅的な研究であり、連体「む」についても、高山善行(2005)にいうミニマルペア、要するに、「む」の有無の比較を行なってもいる。高山市はなぜ和田氏の論文を引用しなかったのだろう。

高山氏が他の著作で引用していた和田氏の論文も、恐らく高山氏が目にしたであろう山本氏の論文も、高山善行(2005)が用いたと同様、連体「む」の有無の比較を行っている。伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題はないのではないだろうか。また、高山氏が用いた共起の有無についても、山本淳(2003)に(連体「む」が)
ある一定の条件下に必然的に行われるのか(他の語と共起する関係にあるのか)
」(3章)
という文言があることから、伝統的な助動詞研究が行えない研究方法と言えない。 

高山氏が強調する「モダリティ論」は「推量の助動詞」を「モダリティ形式」とした用語の置き換えにしか見えない。他は従来の助動詞論と変わらない。ただ一点だけ、「結論」の章に
 なお、見通しとして述べれば,連体用法「む」にはモーダルな意味(判断的意味)は認めにくく,脱モーダル化した用法と見ることができる。それは商品に貼られたラベルのような存在である。
とある。

「ラベルのような存在」は学術文献で用いられる比喩にしては文学的過ぎて私には意味がわからなかった。「脱モーダル化」は「脱推量」と言い替えられる。先行の山本淳(2003)も連体「む」が仮定や婉曲を表わすとする通説への疑問から出発して、前回の高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論で述べたように高山善行(2005)と同様の結論を導いている。とすれば、高山善行(2005)はモダリティ論を用いることを必須としているとは言えない。

したがって、高山善行(2005)でモダリティ論は何の役割をも果していない。モダリティ論を用いたと言うのであれば、今まで多数の言語のmoodやmodalityの比較の研究で得られたtypology(言語類型論)の成果を応用しなくてはいけなかったが、高山氏はそれを行っていない。

それに加えて、高山氏は少なくともこの論文を書いて時点でmodalityを十分に理解していなかったのではないかという疑問が生じる。それは「脱モーダル化」の文言である。ムード(直説法以外)やモダリティを一言で言えば、irrealis(非現実様相)を用いた表現形式である。このことはPalmer (2001)に何度も述べられている。

Palmer (2001)の例を引用する。

5-1 Mary is at home.
5-2 Mary must be at home.
5-3 Mary may be at home.
5-4 Mary will be at home.

直説法を用いた5-1だけがrealis(現実様相)、つまり、既に起こった、あるいは、今起こっているevent(事象)であり、かつ、話し手が直接見聞きしたことである。5-2から5-4は話し手が直接見聞きしたことでなく、その思考の中に存在する。古代ギリシア語の直説法、命令法、接続法、希求法の四つのmoods(法)の、命令、接続、希求の三法は話し手の思考の中にある事象である。

以上の点に注意を払えば、連体「む」がirrealisを表わすと言いながらmodalityでないとは言えない。また、そもそもmodalityはirrealisを用いた表現であるから、「む」をmodalityと考えることは「む」がirrealisを表わすことと同義である。逆に高山氏がそのように捕らえていないということは、高山氏が用いたのはモダリティ論でなく、伝統的な助動詞論の言い換えに過ぎないと言える。

高山善行(2011)に次の説明がある。
メリ,終止ナリはそれぞれ,《視覚,聴覚で得た情報をもとにした判断》という意味的特徴をもち,エビデンシャリティ(evidentiality)を表す形式といえる.エビデンシャリティとは,証拠に基づいた判断を表し,他言語(ホピ語など)においても見られる.
」(p58)

ここがわからなかった。ホピ語とは何だろう。Palmer (2001)によれば、evidentialityはアメリカ大陸先住民の言語に見られると言う。ホピ語はアメリカ大陸の言語である。しかしPalmer (2001)にホピ語の例はなかった。

Palmer (1979)の飯島周氏の翻訳を高山善行(2002)が引用している。高山氏は次の部分を誤解したのではないかと思う。Palmerの二つの著作を見たが、Hopi語に言及しているのはその本の次の箇所だけである。
 「
言語によっては,文法的な時制の体系(temporal systems)を持たず,‘文法化された'法的な区別(‘grammaticalized' modal distinctions)を持つ(Lyons 1977: 816)ものがあることも重要である.たとえばアメリカインディアンのホピ語(Hopi)には(Whorf1956 :5 7-64,2 07-19), 3種の‘時制'があるが,これはLyons(1968: 311)によれば‘法(moods)'として記述するほうが適切である.第1は一般的な真実の陳述,第2は知られている,または知られていると思われる出来事についての報告,第3はまだ不確定の範囲にある事件に関するものである.第2と第3は,非法(non-modal)および法(modal)として対照的に見えるが,第2は過去時の事件, 第3は未来の事件を一般に示す.この言語での時の指示は本質的に法性の指示に由来する.
」(p8)

Palmer (1990) の当該部分。

It is also important to note that there are some languages that do not have temporal systems at all in their grammar but rather have 'grammaticalized' modal distinctions (Lyons 1977: 816).  Thus, in the American Indian language Hopi (Whorf 1956: 57-64, 207-19), there are three 'tenses' which Lyons (1968: 311) suggests might be more appropriately described as 'moods’.  The first is used for statements of general truths, the second for reports of known or presumably known happenings, and the third for events still in the reach of uncertainty.  The second and third would seem to be clearly contrasted as non-modal and modal, but it is also the case that past time events will normally be referred to by the second, and futures events by the third.  Indications of time in this language are essentially derived from indications of modality.

現実様相(realis)と非現実様相(irrealis)の対立があるからこそ、LyonsやPalmerはそれを法(mood)や様相性(modality)と記述している。そのことを高山氏は理解せず、それを証拠性(evidentiality)と誤解したようである。

つい最近、高山善行(2014)を読んだ。この推測はいっそう確かさを増した。
メリ、終止ナリはそれぞれ、〈視覚、聴覚で得た情報をもとにした判断〉という意味特徴をもち、「証拠性」(evidentiality)の形式とされる。「証拠性」とは、その事態に関する情報の出所視覚・聴覚、伝聞などに基づいた判断を表し、他言語ホピ語などにおいても見られるPalmer(2001: 8ではモダリテイの一種とされている)。
」(p141)

Palmer (2001)はアメリカ大陸の言語を例にあげevidentialityを説明する。一度でも読めば、繰り返し登場する言語の名前は覚えてしまう。例えば、Central PomoやTuyucaである。覚えなかったとしても、Palmer (2001)を読めば、Hopi語を例にあげることはしない。対偶をとれば、Hopi語を例にあげるのはPalmer (2001)を読んでいないからである。

更に言えば、モダリティが非現実様相(irrealis)を用いた表現という基本的な点さえ理解していないならば、高山善行(2005)の言うモダリティ論は従来の陳述論の単なる言い替えに過ぎない。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録

公開後細部の訂正を行なった。最終版は2017年11月28日午後7時48分の更新である。

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